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長野地方裁判所 昭和31年(タ)3号 判決

主文

原告の請求に基き原告と被告とを離婚する。

被告は原告に対し金二十万円の支払をせよ。

原告のその余の請求並に反訴原告の請求はいずれもこれを棄却する。

訴訟費用は本訴を通じ被告(反訴原告)の負担とする。

事実

原告(反訴被告、以下単に原告と称する)訴訟代理人は本訴につき「原告と被告(反訴原告、以下単に被告と称する)とを離婚する。被告は原告に対し金三十万円の支払をせよ」との判決並に金員支払の点について仮執行の宣言を求め、反訴につき請求棄却の判決を求め、本訴の請求原因並に反訴の答弁として、次のように陳述した。

「原告と被告とは昭和二十九年十月十一日婚姻の式を挙げ同月二十三日その届出をなした夫婦であるが、被告にはもともと他に愛人があり原告との婚姻は被告が周囲の人から無理に押しつけられて承諾したものであつて、そのため被告は婚姻の当初から原告に対して愛情らしいものが更らになく、原告は能う限りの誠意を傾倒して被告に仕え、農事にも精励したのみならず農閑期には実姉である長野市西長野の熊原千代方に洋裁の手伝に通いその賃金は被告の母である丸田わかじに手交したりしたのであるが、被告は原告を嫌つて昭和二十九年十二月から翌三十年四月まで通勤が不可能ではないのに自己の奉職する更級郡信里小学校の近くに単身下宿し、時たま帰宅しても少しも愛情を示さず原告が妊娠することを極度に警戒している有様であつた。そうして昭和三十年四月中旬頃以来被告は直接原告に離婚を求めて「この結婚は側から強要されて大失敗した、このまゝ続けていたら不幸が増す許りだからお互に別れよう、そのことは昨年(昭和二十九年)十二月末に母や伯父とも相談して決まつている」と告げ、また「お前が良く仕えてくれればくれる程嫌気が増す」などとも言い、拳句の果には無理に離婚の口実をつくるために「お前は肉体的に不具の点があるのではないか」と甚だしい言い懸りをつけたり原告を白痴であると世間に言いふらしたりし、一度ならず原告に離婚届をつきつけて捺印を迫つたこともあり、原告が応じなかつたところ、昭和三十年七月十七日附で被告の伯父であり本家の当主である丸田義章をして原告の実父宛に「直子様将来のため此際返上いたし候」との文面の手紙を寄せさせるに至り、なお同年九月頃から被告は再び下宿して帰宅することも稀になつた。かくして同年十一月三十日被告宅に関係者寄り合い協議したが被告は離婚を主張して協議纒らないため、原告は同年十二月七日以来前述の熊原千代方に厄介になつているが、なお原告は円満た夫婦生活に復することを求めて同月中旬頃長野家庭裁判所に被告を相手方として調停の申立をしたが被告の容れるところとならなかつた。以上の次第で婚姻を継続し難い重大な事由があるから被告との離婚を求める。

そうして原告としては初婚である被告との婚姻に破れてその精神的苦痛は著しいが、殊に被告のため性器が不具であるとか白痴であるとか妙齢の婦女に対する致命的な宣伝をされて郷里の人の間にそのような噂がたち、ために実家に帰ることもできず、手狭で八畳間の一室に夫婦とその子供二人が起居する前記熊原方に厄介になつている次第であり、なお原告の父は古く長野師範学校を卒業し教鞭を取ること三十九年、現在居村小学校のPTA会長を勤め、母は居村の民生委員をしており、一方被告は母、妹及び弟二人との五人暮らしで田約三反歩畑約一反歩を有する上母には亡夫の扶助料の支給があつて裕福な生活をしている等双方の家庭の状況を考慮して、被告に対し慰藉料として金三十万円の支払を求める。

被告の主張事実については、原告が我が強いとの主張は争う。(一)乃至(六)の事実については次のとおりである。

(一)  原告が里帰りの帰途長野に立寄つたのは美容院に行つて丸髷を普通の髪形に直したり着付を直したりするためで、被告の了解を得た上でのことであり、時間のかかることは被告も始めから承知していた。

(二)  原告の父が原告を病院に連れ行つた事情は次のとおりである。すなわち十月十四日晩被告との婚姻まで処女であつた原告は夫婦関係に際して局部に甚だしい疼痛を覚えたため、翌十五日朝被告にそのことを打あげて長野に行つて医師の診断を受けることに同意を得、早速当日長野に行つたがまず熊原千代方に立寄つたところ偶々実母が来あわせていて相談の結果、その日はそのまま被告方に帰ることとなり、翌十六日改めて実父が被告方に行つて被告の母にも事情を話して了解を得た上、原告を伴つて長野赤十字病院に行き診断を受けた結果、異常なしとの診断を得て原告はそのまま被告方に帰つたのである。従つて原告が新婚早々三日間も実家に泊つたとの被告の主張は虚構も甚だしく、受診については被告及び被告の母の許しを得ているのであつて、被告が原告や実父の行動に疑いを持つたり不快を感じたりする筈はない。

(三)  昭和二十九年十一月中原告が実家に十二日間滞在したのは重い感冐に襲われ臥床したためであつて、予定通りに帰宅できないことは実父から被告方に伝えて了解を得ている。

(四)  同年暮に原告が実家へ年末の挨拶に行つたのは十二月二十一日であつて一泊しただけで帰つた。そうして同月二十五日に餠搗きまで済ませたので被告の母から姉の熊原方に泊りに行くように言われその際縫物を持参し熊原方で仕上げて帰るようにいいつけられて出たが、その縫物が出来上がらなかつたため帰宅が遅れたけれども、同月二十九日に帰宅の予定のところ一日遅れたにすぎない。なお当時被告は下宿していて未だ帰宅していなかつた。

(五)  原告が昭和三十年一月乃至三月の大半を熊原方に通つたのは前述のように農閑期を利用して賃金を得ることと洋裁を見習つて自家の縫物は自分でできるようになるためで、しかもそれは被告の母の命令によつたものである。従つて寒中でありしかも被告が下宿していて不在であるにも拘らず原告は熊原方に泊ることなく毎日弁当を持つて通つたのであつて、賃金は前述のようにすべて姑に渡した。

(六)  原告は農業を嫌うどころでなく、もともと農家に育つたため進んで農事に挺身し、殊に昭和三十年の秋繭の如きは被告の母が不在となつたため独りで飼育し、その秋の農繁期の仕事も完全に遂行した。すなわち既に同年七月中に前述の丸田義章の手紙が実家に送られ且つ原告も被告等の要求によつて実家に行つたが、誠意を披歴したならば必ずや相手にも通ずると考え、原告は同年八月十三日から再び婚家に帰り農事に粉骨砕身し辛抱を重ねて同年十二月七日まで婚家にいたのである。

また原告は協議離婚をすることに応じたことはなくこの点に関する被告の主張事実も争う。結局原告は離婚には異存はないが、被告の主張するような離婚原因は存しないから、被告より求める離婚の請求は失当である。」

以上のように述べ立証として甲第一号証、第二号証の一、二及び第三乃至第五号証を提出し、証人松本源治郎、同松本はつい、同熊原千代、同西村和男、同西村よし子及び原告本人の各訊問を求め、乙号各証の成立を認めた。

被告訴訟代理人は本訴につき「原告と被告とを離婚する、原告のその余の請求を棄却する」との判決を求め、反訴につき「被告と原告とを離婚する、訴訟費用は原告の負担とする」との判決を求め、本訴の答弁並に反訴請求原因として次のように陳述した。

「原告主張の事実中原告と被告とが昭和二十九年十月十一日婚姻の式を挙げ同月二十三日その届出をした夫婦であること、原告が相当期間実姉である熊原千代方に洋裁の手伝に行つたこと、原告がその賃金を一回被告の母に交付したこと、被告が更級郡信里小学校に奉職し冬期間その附近に単身下宿していたこと、原告主張の頃被告の伯父である丸田義章が原告の実父宛に原告主張のような手紙を寄せたこと、昭和三十年十一月三十日被告方で関係者が集り協議したこと、原告が同年十二月中長野家庭裁判所に被告を相手方として調停の申立をしたが調停成立に至らなかつたこと及び原告の父が嘗て教員をしていたことはいずれも認めるが、その他の主張事実はすべて争う。殊に被告に他に愛人があつたなどとは全く虚構であり、被告が原告について性器が不具であるとか白痴であるなどと言つた覚えはなく、離婚届に捺印を迫つたこともない。被告が下宿をしたのは、通勤に一時間乃至一時間半を要するのが日が短くなると自宅から通うのでは不便であり且つ教員として繁忙であるため、己むを得なかつたのである。丸田義章の手紙は同人が原被告間の円満でないことを患えて早く離別するのが双方のためであると考え認めたものであつて、被告は後日そのことを知つたのである。

原被告の間は兎角円満にゆかなかつたが、その原因を探ねると原告は自我が強く被告はつとめて寛容にしたのであるが次第に感情の疎隔を来すようになつたのであつて、更に些細の行き違い等が度重つて遂に破局を招いたのである。その行き違い等の例として

(一)  昭和二十九年十月十一日の挙式の翌日原告は地方の慣行に従つて実家に里帰りをしたが、更にその翌日は被告が勤務先の学校長はじめ同僚等を招いて婚姻の披露をすることになつていたにも拘らず、原告は長野市の前述の熊原方に立ち寄つて帰宅が遅くなり、漸く開宴には間にあつたものの被告はじめ家人は非常に困却した。

(二)  その二、三日後原告が登校不在中原告の父が突然被告方を訪れ「原告の性器が不具である疑があるから診断を受けるため病院に連れてゆきたい」と申入れて原告を連行して行き、原告は新婚早々にも拘らず三日間実家に泊つて帰つたが、被告は原告等父子の行動に疑をさしはさむと同時に甚だ不快を感じた。

(三)  同年十一月十六日取り入れもすんだので被告は原告に三、四日で帰宅するようにと言つて実家に行かせたところ、原告は同月二十八日まで帰宅しなかつた。

(四)  同年十二月二十六日原告は年末の挨拶に実家に行つたが、多忙な歳末であるにも拘らず同月三十日夕刻になつて漸く帰宅した。

(五)  被告家では被告の母は専ら農業に従事しているので日常の家事は主として原告の勤めであるにも拘らず、原告は姉熊原千代の洋裁の手伝をするため或は家族の衣類の裁縫をするためと称して右熊原方に通わせてくれと申出で、昭和三十年の一月乃至三月の大半を同人方に通つた。

(六)  被告家は、被告が月給一万余円を得妹愛子も他に勤めて月給約三千円を得てはいるがいずれも薄給であり、弟二人が学校に通つているため農業にはげまなければ生活が困難であつて、原告は母と共に田二反七畝余畑一反余を耕作し春秋二季の養蚕もしなければならないことを承知の上で嫁して来ながら、農事を嫌い、昭和三十年四月乃至六月は多少農事の手伝をしたがその間でも口実を設けては実家や姉の家に行くので被告等は非常に困つた。

従つて原被告の間は甚だ面白くなかつたが、同年七月丸田義章より原告の父宛離別を申込んだ後は双方の間は益々気まずく、以後原告は殆んど実家又は姉方に行つている有様であつたため、同年十一月三十日関係者寄り合い協議したところ、原被告は協議離婚をすることに話が纒り一切を媒酌人西村和男に一任し同人より原告に対し金一封を贈ることに和解成立したにも拘らず、原告は意を飜して右西村和男の提出した離婚届書類に捺印せず夫婦同居の調停を申立て次いでこれを取下げて本訴提起に及んだのである。

以上の次第で婚姻より現在に至る一切の経過を顧みると原被告は到底婚姻を継続し難いので、被告は原告よりの離婚請求に応ずるのみならず、被告よりも反訴をもつて原告に対し民法第七百七十条第一項第五号の事由によつて離婚を求めるが、原告の慰藉料の請求には到底応ぜられない。

なお原告は昭和三年一月八日生で居村の高等小学校を卒業したものであり、被告は同年十月十八日生で更級農学校を終え東京都立川専問学校に入学したが昭和二十四年実父死亡のため第二学年で中途退学し爾来小学校教員として月給一万八百円を得ているものであり、財産として有するものは主として父の遺産である宅地建物及び前述の田畑を母び兄弟妹姉計七人で相続したのみである。」

以上のように述べ、立証として、乙第一乃至第四号証を提出し、証人西村和男、同丸田義章、同丸田わかじ及び被告本人の各訊問を求め、甲第四及び第五号証の各成立及び同第二号証の一の郵便官署の作成部分の成立は認めるが、右甲第二号証の一のその余の部分の成立及びその余の甲号各証の成立は不知と述べた。

理由

甲第五号証(戸籍謄本)によれば原告と被告とは昭和二十九年十月二十三日婚姻した夫婦であることが明かである。

そうして証人松本源治郎、同熊原千代及び同西村和男の各証言、同丸田義章の証言の一部及びこれによつて成立の認められる甲第二号証の二、同丸田わかじの証言の一部、原告本人の供述並に被告本人の供述の一部を綜合すると次の事実が認められる。すなわち原告と被告とは西村和男夫妻の媒酌によつて昭和二十九年五月二十三日見合いをし同年六月十六日いわゆる樽入れを行つた。ところがその後原告が低能であるとの噂が被告方の耳にはいつたため、被告の母から仲人に対して一旦破談を申入れたが、同年九月十八日原告の父が原告の小学校の成績表を持参して仲人と共に被告方に赴き被告の母や本家の伯父丸田義章等に右噂は他人の中傷によるもので事実無根であることを説明した結果一応了解がつき同年十月十一日に婚姻の式を挙げることに決つた。しかしながら被告は挙式の間際まで去就に迷つており、漸く母や丸田義章の説得によつて予定通り挙式を行い原被告は被告方で同棲するに至つた。けれども挙式後も原被告はなかなか互に気があわず、原告は一生懸命に夫に仕え、姑に尽し、殊に秋の取り入れその他の農事にも精励してきたが、被告は同年暮頃から秘かに原告との離婚について考えるようになり、十二月からは自己の勤務先の更級那信里小学校への通勤が冬期間特に不便である事情もあつて勤務先の近くに単身下宿し、一方原告は農閑期を利用して昭和三十年一月中旬頃から長野市に住む実姉の熊原千代方に洋裁の見習に通うようになつてから両者の間はますます感情が疎隔するようになり、昭和三十年四月頃からは被告は原告に対して「自分は最初九分九厘までお前と結婚する意思はなかつたのだが周囲の者から強要されて後は何とかなると思つて結婚したのだが、しかし結婚後三日目で幻滅を感じた」「離婚話は昨年の十二月中に決定している」などと言つて直接離婚を求めるようになつた。その以後は両者の間は全く気まずい状態で経過し、遂に同年七月中前記丸田義章、被告の母、被告の三名で相談の上丸田義章から原告の父宛に「此儘では本人同志の将来の不幸極りなく母子も既に強固なる意志も決定の由私としても詮方なく此上は無き縁とお諦め被下度直子様将来のため此際返上いたし候」等の文面の書面を送り、一方原告を他のことにことよせて実家に行かせた。原告は被告から別れ話が出た後も麦の刈入れ田植等婚家での仕事に励んできたが、右のように実家に帰らされてからも何とか被告の飜意を求めようとして同年八月中頃から婚家に帰つて秋繭、取り入れ等の農事にいそしんだが、被告は再び下宿をするといつた状態で遂に被告の意思を変えることができず、同年十一月三十日双方の関係者が集つて協議した結果、被告はどうしても離婚すると言つて意思を抂げないため大勢は離婚に話が落ちつく結果となり、そのため原告は同年十二月七日以来前記熊原千代方に寄遇して現在に至つている。証人丸田義章及び同丸田わかじの各証言並に被告本人の供述中以上の認定に反する部分は信用できない。

そこで以上のように被告が原告に対して離婚を求めるようになつた原因について考えてみるに、原告は被告にはもともと他に愛人があつたと主張するけれども、そのことを推測せしめるような証拠としては、被告が「二、三年すれば好きな女と一緒になる」と言つていたとの原告本人の供述以外には何もなく、しかも原告本人の供述及び弁論の全趣旨に徴すると右の被告の言葉の趣旨は単に原告と離婚したならばこの次は周囲の者のすすめには従わないで自分が真に愛情を感ずる女性と結婚したいという意味にすぎないことが窺われ、結局被告にもともと愛人があつたり乃至は婚姻後に愛人ができたことを推測するに足りる証拠はない。また被告は原被告間の感情が疎隔するようになつたのは原告が我が強いためと些細な行き違い等が積み重つたためであると主張しその行き違い等の例としてその主張のような(一)乃至(六)の事実を挙げるが、原告が特に我が強い等性格が偏跛であることを認めるような証拠はないし、右(一)乃至(六)の点についても、証人松本源治郎及び同熊原千代の各証言、同丸田わかじの証言の一部、原告本人の供述並に被告本人の供述の一部を綜合すると、(一)の点については、原告は長野に立寄ることについて被告の了解を得ていたのみならず原告の帰宅は来客の揃つた後ではあつたが、さしたる差支を生じなかつたこと、(二)乃至(四)の点についてはこれに対する原告の主張のとおりであつたこと、(五)の点については、原告が熊原方に通うことは、原告から申出たものであるが被告の母のいいつけによつたものであるかは兎も角として、被告及びその母において十分了解しており、且つ原告は熊原方から得た賃金は全部被告の母に交付したこと、(六)の点については原告は前記のとおりよく農事に精励し農繁期中熊原方に通つたのは雨天のときだけであることをそれぞれ認めることができ、いずれの点も原告には何ら責むべきものがないか又はその行動乃至態度に多少十分でない点があつたとしても夫婦間の感情を疎隔する原因になる程のものではないと認められる。証人丸田わかじの証言及び被告本人の供述中右認定に反する部分は採用しない。そのほか証拠調の結果からこれといつて特に被告が原告に離婚を求める動機となるような事実は何ら認められない。してみると、前記認定の経過から考えて、被告はもともと原告との婚姻についてあまり積極的な気持をもつていなかつたところへ原告が低能であるとの噂が耳にはいり、それが事実無根であることが判明してもなお且つ更に少なからず気持をそがれたが、結局母や丸田義章の説得によつて自分自身も結婚すれば自然に愛情が湧くであろうと考えるに至り原告との同棲生活にはいつたけれども、以上のような気持の動揺があつたために容易に原告に対して愛情を感ずるようになれず、すぐさま原告との婚姻は失敗であつたと後悔するようになり、その後悔が先に立つてあくまでも婚姻生活を維持してゆこうという努力をすることなく、その努力をする意思を自ら抛棄して離婚を欲するようになつたものと推察するほかはない。とすれば被告の考えや態度は、全く理解できないではないけれども、一言にしていえば好きになれないから別れるというのであつて、極めて自分勝手な無責任なものであるといわなければならない。いつたい婚姻は自己及び相手の双方にとつて一生の重大事なのであるから、これを決するにあたつても、またこれを廃するにあたつても、極めて慎重でなければならないのであつて、被告は原告との婚姻に際してそのことの自覚が足りず聊か軽卒であつたと認めざるを得ないが、一旦婚姻の式を挙げ同棲生活にはいつた以上は互に努力して自ら愛情を育ててゆくと共に多少の不満には辛抱して婚姻生活を維持してゆくのが夫婦間の人倫であるに拘らず、前記認定のところからいつて被告がそのような努力や辛抱を重ねた形跡は少しもないのである。

以上の認定に従えば、原被告の夫婦関係は既に破綻を来しておりその原因は全く被告の責に帰せられるべきものであつて被告がその考えや態度を改めるにおいてはなお原被告が円満な婚姻生活にはいり得る望みが全然ないではないが事実上著しく困難であると認められるから、原告より婚姻を継続し難い重大な事由ありとして被告との離婚を求める請求は正当として認容すべきである。

次に原告の慰藉料の請求について考えるに、被告はその責に帰すべき事由によつて原告に対して婚姻を継続し難い状態に立ち至らしめたのであるから、それによつて原告が被つた精神上の苦痛を慰藉するに足る金員を支払う義務あること勿論であるところ、原告にとつて被告との婚姻は初婚であることは前記甲第五号証によつて明かであり、殊に原告が低能であるとか性器に異常があるとかの噂をたてられていることは原告本人の供述によつて認められるところであつて、原告本人の訊問の際における供述の態度や内容からすると原告が通常人程度の智能を有することは明かであり、原告本人の供述によつて成立の認められる甲第一号証によると原告が性器に特別の畸型がないことが明白であるに拘らず、原告が右のような噂をたてられているとすると、そのような噂自体女性に対する甚だしい侮辱であるのみならず、原告がその年令(前記甲第五号証によると原告は昭和三年一月八日生)であるからいつて本来十分再婚が可能であるのに、右のような噂によつてかなりの程度まで再婚に支障を来すことはいうまでもないところであるから、原告が大なる精神的苦痛を味うことは推察するに余りがある。ただそのような噂を被告が撒いたとの原告の主張については原告本人の供述によつてもこれを認めるに十分でなくその他にもこれを認めるに足りる証拠がなく、むしろ前記のように婚姻前原告が白痴であるとの他人の中傷がはいつたり、原告本人の供述によつて認められるように原告が二回に亘つて長野赤十字病院産婦人科の診断を受けたりしたところから兎角右のような噂が人の端に上るようになつたとみるのが妥当である。しかし右のような噂も離婚にならなければ原告としてもあまり意に介する必要のないことであるが、離婚になればこそ大きな苦痛を感ずるのであつてみれば、原告が右のような噂を立てられていることは慰藉料額算定の事情として大いに考慮さるべきである。その他証人松本源治郎及び同松本はついの各証言によると原告の父は嘗て永く教職にあり原告の母は現に民生委員をしており原告家は畑一町四、五反を自作する相当の農家であり、乙第一及び第三号証(いずれも公文書)及び被告本人の供述の一部によると被告は現に月給一万一千二百円を得ている小学校教員であつてその母及び兄弟姉妹等と共に父の遺産である現在居住の宅地建物及び田約二反七畝畑約一反一畝を相続している等、当事者双方の家庭の情況財産状態をも勘案して慰藉料の額は金二十万円をもつて相当と認める。被告は昭和三十年十一月三十日の協議によつて仲人西村和男より原告に対して金一封を贈ることで協議離婚をすることに和解が成立したと主張するが、慰藉料の点について和解契約が成立したことを認めるに足りる証拠はない。よつて原告の慰藉料の請求は金二十万円の支払を求める限度において正当として認容するがその余は失当として棄却すべきである。

被告の反訴請求については、前記認定のとおり原被告の夫婦関係は既に破綻を来たしているが、その責任は被告にありしかも被告が考えを改めるにおいては婚姻を継続することが全く不可能ではないと認められるのであるから、被告より婚姻を継続し難い重大な事由ありとして離婚を求めることは許されないものといわなければならず、被告の請求は失当として棄却する。

よつて訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条第九十二条但書第九十五条を適用し、仮執行の宣言についてはその必要を認め難いのでその宣言をしないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判官 今村三郎)

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